空騒ぎ 後編
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―――邵可邸の居間といえば居心地のいい場所の代名詞だったのに。
部屋に通されて小半時、いったい何が起こっているのかと。絳攸は逃げ出したくなる体を必死に押さえていた。秀麗が心配するのも無理はない、邵可と静蘭の態度はとても不自然で。
・・・・・・しかし。
(―――どこから、喧嘩したと言う発想になるんだ・・・・・・?)
逆だろう、逆。
人の心については己も大概疎い方で、養い親やら自称『親友』やらにからかわれっぱなしだが、彼女の鈍さはそれ以上かもしれないと、絳攸は愛弟子の将来を危ぶんだ。
・・・・・・確かに二人が室に入った時から今まで、邵可はどことなく気もそぞろで。最近の王についてやなにやの世間話を交わしながらも、側に控えている美貌の家人が受け答えする度、返事も態度もぎこちなくなる。視線一つ合わせられないが気になって仕方がないというそぶりは、けれど険悪さとは対極だ。いつもの柔らかな笑みから落ち着きが消え、代わりに浮ついていると言ってもいいような華やぎが加わって・・・・・・ その意味することは多分一つしかないのだが。そんな怖い結論を、信じたくはなく。
(れ、黎深さまがこのことを知ったら・・・・っ!)
怪談には早い季節だというのに、冷や汗が流れた。秀麗が文をよこしてからさえもう三日。まだ養い親が知らないのが嘘のようだが、知ればとばっちりが飛んでこないはずは無いから、まだ気づいていないのだろう。
「どうなさいました、絳攸殿。お加減でも?」
止まらぬ汗を気遣ってくれる邵可の声は優しくて、静蘭さえ絡んでいなければ普段どおりと見えた。これなら府庫で会う分には、異常が分からないかもしれない。
一縷の望みに縋りつつ、
「いえ、大丈夫です」
理性理性と己に言い聞かせ。
しかし、横目で見た腐れ縁の相棒はなぜか笑いをこらえるような顔をしていてむっとする。藍家の彼にはしょせん他人事なのかもしれないが、その反応は無いだろう。
文句を言おうと手を動かして、
「あっ」
卓の上にあった茶碗をひっくり返してしまった。邵可の膝に茶がかかる。
「すみませんっ!」
「大丈夫ですか、旦那さまっ」
慌てて立ち上がった絳攸よりも静蘭の方が反応が早くて。さっと取り出した布で主の膝を拭い始める。
・・・・・・その瞬間の邵可の見事に染まった顔の赤さに。
絳攸は硬直して、それ以上侘びの言葉さえ出てこなかった。
「いいよ、静蘭、気を使わないでおくれ」
「そんなわけには参りません。まったく、もう冷めていたからいいようなものの」
暗黒公子の視線が痛い。
「静蘭、避けられなかった私が悪いのだから、絳攸殿を責めてはいけないよ」
「旦那さまはお優しすぎます」
「そ、そんなことは・・・・・・」
膝を拭く手を止め、見上げて言う家人と目が合って、再び主人の顔が赤くなる。
「と、とにかく、着替えてくるから。お客様に、くれぐれも失礼のないようにね」
あたふたと立ち上がって、邵可は奥の部屋へと姿を消した。
「―――全く、落ち着きのない。王の側近の名が泣きますね」
「そう言うけど、君。今回は絳攸が驚くのも無理は無いだろう?」
主人の姿が見えなくなった途端、まとう空気を数度下げて。つけつけと静蘭が文句をいい、反論の言葉もない絳攸を楸瑛がかばう。
「いくら驚いたからって、旦那さまの膝にこぼすことは無いでしょう」
自分で引っかぶればいいのですよと、相変わらず彼は容赦がない。
言い方はきついが内容はもっともで、すまなかったと大人しく謝罪する絳攸はしかし、この旦那さま大事の男が、邵可の異変に無反応だったのを不思議に思った。いっそ不気味なほど平然として、当たり前のように受け止めているのは何故だろうか。
「あのねえ、絳攸」
声に出さない疑問に答えてくれたのは当事者ではなく、意外なことに相棒で。
「心配しなくても、大丈夫だよ。邵可様の態度がおかしかった理由なら私に心当たりがあるし、治療法も知っているから」
「何っ!?」
今度こそ容赦なく胸倉を掴んで詰め寄ると、楸瑛は余裕たっぷりににっこりと笑った。
「こないだから、軍の方で流行っている奇病があってね・・・・・」
曰く、その病に罹患すると、その後最初にくしゃみをしたときに目の前に居た人物に、無条件に恋をしてしまうらしい。
「―――なんだ、それはーっ!」
あまりのことに絳攸は、叫んだまま絶句した。
「病と言うより、仙術かまじないが暴走してるみたいな感じかな。・・・・・でもそんなに大したことにはならないんだよ」
思いがけない相手に恋する以外、体調などに異常はないし、心の変化の方も、うっかり恋してしまった相手と口付けを交わせば即座に正気に戻る。一時の夢から覚めてしまえば、後は己と周囲の記憶の恥ずかしさに悶えるだけだ。
「とにかく落ちている最中は、初めての恋に戸惑う乙女のような態度になるから、自分から何をすると言うこともないし実害は無いよ。まあ事情を知らないと、びっくりはするけどね」
だから大丈夫だよと楸瑛は言うが、
「実害・・・・・」
この場合、養い親が加わることで被害甚大なのが見える絳攸は青ざめた。
そんな彼にちょっと笑って、楸瑛はもう一人部屋に残る当事者を見る。
「君だって軍にいるんだから、知っていただろう、静蘭? どうしてさっさと治して差し上げないんだい?」
禁軍所属の軍人である前に邵可の忠実な家人である青年は、上官を実に冷ややかな眼で見た。
「できるわけがないでしょう、そんなこと」
「どうしてだい? 君なら隙を見て邵可様に口付けの一つや二つ、することはたやすいだろうに」
何のこともないだろう、と首を傾げる男にとっては、口付け程度をためらうのは本当に理解できないらしい。
この常春め、どうせお前なら誰にでも簡単なことだろうよと、絳攸はうっかり連想してしまった胃の痛い情景を振り払うように心中で八つ当たった。
しかし苛立ちを覚えたのは言われた青年の方も同じだったようで、
「ですから。旦那さま相手に、そんな失礼なことができるわけがないと言っているんです」
飲み込みの悪い男を見る目には、明らかな軽蔑が籠もっていた。
「いや、だって君、治療だよ?」
失礼と言うならば、このまま症状を長引かせる方が失礼だろう、さっさと治して差し上げる方が親切だろうに、と、あっけにとられて楸瑛が言葉を重ねる。
確かにそれはそうだと、絳攸も思った。邵可と静蘭の口付けなど考えたくはないが、避けて通れないものならば、早い方が良いのだろう。
けれど静蘭の表情は頑なで。
「そうだぞ、静蘭。邵可様の態度がおかしいと、秀麗も気に病んでいたんだからな」
説得に加担しようと、絳攸は邵可の愛娘の名を出した。静蘭を説得するつもりなら、切り札になる名前だ。
しかし。
「・・・・・・お嬢様にご心配をおかけするのは不本意ですが、しかし、物事には、できることとできないことがありますから」
意外にも、静蘭はこの切り札に屈しなかった。
絳攸は驚いた。まさか静蘭に、彼のお嬢様の為でも譲れないことが、この世に存在するとは思わなかった。
同じ思いらしい楸瑛が心外そうに訊ねる。
「静蘭、君なにか誤解していないかい。別に最後までしろとは言っていないよ?」
「あたりまえだっ! 旦那さま相手に、そんな妄りがましい事をっ!」
考えるだけでも不敬だと、そんなに初心な育ちをしていないはずの青年が顔色を変えて。
睨みつける目じりが、ほんのり赤らんでいる。
ようやく二人は、事の次第を悟った。
「静蘭、お前、もしかして・・・・・」
「――――くだらないことばかりおっしゃるなら、私は失礼します」
絳攸に最後まで言わせず、静蘭は台所の方へと足早に去った。
「なあ、今のって」
邵可はまだ戻らず、秀麗からも夕食ができたという音沙汰はない。
取り残された二人は呆然と顔を見合わせた。
「うん、どうも、同時発症していたみたいだね・・・・・」
先ほどまでの余裕を無くした楸瑛が、やっかいなことになったと顔を曇らせる。
「なんだ、二人とも罹患していたら治療法が違うのか?」
「いや、別に、口付けしたら正気に戻るのは同じなんだけれどね」
基本的にこの病の患者は治るのを嫌がるので、激しく抵抗するのが常だと言う。
「別に、当人達がどう思っていようと、最悪意識が無くたって、唇さえ重なれば効果に違いは無いんだけど・・・・・ 当事者の協力をどっちも見込めないとなると・・・・・」
「だが、邵可さまはともかく、静蘭は自分の状態が分かっているんだろう?」
「さっきの彼の態度を見ただろう? 仄めかしただけであれだ」
強制的に従わせようとした場合、普段の何倍もの力で抵抗するので、ことは非常に困難になると言う。
「・・・・・・なんで、そんなに治りたくないんだ・・・・・・?」
「さあ。この病にかかったとき特有の、いきなりの純情が純潔を要求するのか。でなければ・・・・」
言葉を途切れさせた楸瑛は、絳攸を見てふっと笑った。
「やっぱり、どんな理由で落ちたものでも、恋は恋だからじゃないかな」
誰に間違っていると言われたって、捨てたくない想いはあるだろう?
正面から見つめてそんなことを囁かれて。
「馬鹿」
絳攸はそう答えるのがやっとだった。
まったく、この常春頭の節操なしときたら、いつどこでも、いきなり口説き始めるのだから困る。
それで早まる己の鼓動には、もっと困るのだが。
・・・・・・・・・結局、秀麗には心配しなくても、喧嘩ではないようだから、とだけ言い含め。
静蘭を力づくでどうにかできるだけの助っ人を呼ぶか、二人を眠らせる薬物を手に入れるか、いずれにせよここは出直すしかないだろうと結論を出して、楸瑛と絳攸は邸を辞した。
それだけ腕が立つと言えば人数は限られるのだが、まさか王に事の真相を伝えるわけにもいくまいし、燕青がいるのははるか茶州の空の下。手近で最強なのは禁軍の両大将軍だが、話せば面白がって放っておけといいそうな性格をしている。
かといって、薬物はと言えば・・・・・ 紅家当主筋の邵可と、後宮育ちの静蘭が、共に耐性をつけていないものが、たやすく入手できるとも思えない。
二人が事態を解決するのが早いのか、黎深の耳に届くのが早いのかは、神のみぞ知るところだった。
【了】
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