空騒ぎ おまけ

「それで、もちろん今夜は私の邸に来てくれるよね」
 問題の根本的解決を先送りにして、邵可邸の門前で軒が回されてくるのを並んで待つ間、唐突に楸瑛がそういった。
 行きに来た時から藍家の軒に同乗で、当然軒宿りに控えていたのもそれ一台。明日は折りよく公休日。
 ―――この条件でも、「もちろん」などと言われるとむっとするものである。
「昨日もお前のところに行っただろう」
「え、でも昨日はほとんど何もしていないよね」
 焦ったように言う男に絳攸は白い目を向けた。
 確かに休み前ではなかったので最後まではしていないが、それをして「ほとんど何も」というのはいけずうずうしいというものだ。
「俺は今日はゆっくり寝たい」
「うん、昼まで寝ていていいよ」
 分かっていてのこの返答に、本気で自邸へ帰ると言おうかと思ったが。口を開くより先に、楸瑛が言った。
「とにかく、今日はうちに来なければ駄目だよ、絳攸。もし君が、誰かの前であの病を発症してしまったらどうするんだい。あれはうつるものなんだよ」
「別に、実害は無いって言ったのはお前だろう」
 何を言うかと思えば、と絳攸は一笑に付したが、常春頭には珍しく男は真面目な表情を崩さない。
「それについては私が浅はかだった。取り消すよ。・・・・・・これまで軍のむさ苦しい男共しか発症者を見たことが無かったから、思い至らなかったんだ」
 いい年をしたごつい男共がもじもじと、赤くなって物陰から相手を見つめるしかできない光景などは珍妙もいいところで。物笑いの種としか認識していなかったのだという。
「だけど、さっき気づいたんだ。もし君があんな目で誰かを見たら。誰であれ、君に恋してしまうだろう?」
 あくまでも真顔で、男は切々と訴えてくる。絳攸はますます馬鹿馬鹿しいと思った。
 先ほどというのは眦を染めた静蘭を見て、ということだろう。確かにあれは衝撃だった。・・・・・彼の相手が邵可さまで、ある意味よかったと思う。あそこまでの美形から、気のあるそぶりを見せられたなら、他の者ならたやすく舞い上がってしまうだろう。
 だが自分はごく普通の男だ。そんな心配をするのは非現実的というものである。
 ―――多くの女や、たまに男からまで容姿を誉められても、自分の地位に対する世辞としか受け止めていない絳攸には、楸瑛の心配が分からない。
 ちなみに地位も家も関係なく彼を誉める物好きも、今目の前に一人いるのだが、これは誰にでも歯の浮くようなことを言える常春頭なので真に受ける必要はないのだった。
 絳攸がそう考えていることなど分かっているのだろう。
 返事すらしない恋人に溜息をつくと、
「言っておくけどね、絳攸。私だって人並みに嫉妬位するんだよ。君が他の男を――女でも同じだけれど、あんな目で見つめて口付けを交わすなんて、考えるだけで耐えられない。・・・・・・君だって、余計な殺生を増やしたくは無いだろう?」
 さらっと物騒なことを言った。
 軽口めいてはいたが目が笑ってはいなくて、絳攸はようやく、幾分かの本気が入っているらしいと判断する。・・・・・・まさか全部本気ということは無いだろうが。
 まじない崩れのような症状の癖にうつるというが、あれはそんなに感染力が強いのだろうか。
 ―――悩み始めたところに、準備にもたついていた軒がようやく門前にやってきたけれども、行き先を決めずに乗り込むわけには行かない。絳攸の邸は紅本家と敷地続きの隣に位置し、藍家本邸とは方角違いになる。
 御者を待たせたまま、絳攸は小声で訊ねた。
「その病とやらは本当に、口付けでしか治らないのか?」
 自然治癒することは無いのかと問うと、楸瑛が首を傾げる。
「どうだろう。私が知っているのは本当に軍内の話だから・・・・・ 罹患がばれると即座に取り押さえられて、強制治療なんだよね」
 だってあれはむさい男がやると、とてもとてもうっとうしいんだよと楸瑛は、形のいい眉を寄せた。
「うっかり惚れられた方も災難で、そんなのと口付けるのは嫌だと逃げたりするから、この間から軍部では始終捕り物騒ぎだよ」
 にも拘らず絳攸には初耳だったが、おそらく大将軍二人の性格のおかげで、禁軍詰め所周辺は騒がしいのが日常だから、紛れてしまって人の口の端に上らないのだろう。
「まあ、相手が軍内の人間ではなかったりして、発覚が遅かった例はあるから・・・・・ 少なくとも十日ばかりではそのままのようだね。自然治癒した例はまだ知らないし」
 だからうちにおいでよ、とは口に出さずに目で語って。楸瑛は返事を待っている。
 確かに意地を張って己の邸に戻っても、いいことはなさそうだと絳攸も思った。うっかりそんなものにかかったら、一生馬鹿にされるだろう。特に人の悪い養い親に。
 相手が楸瑛でもからかい倒されるのは同じだが、一点だけ違うのは、きっとすぐに治してくれるだろうことだ。別に彼の方が信用できるというわけではない。ただ、この手の早い男が、せっかくの共に過ごす休日を、ネタにする為だけに我慢するはずがないのは分かっていた。
「―――そうか、自然治癒はあるとしても長くかかるのか。・・・・・それじゃあ今は、黎深さまと顔を合わせたくはないな・・・・」
 邵可がこんなことになったのは自分のせいでは全くないが、なんとなく養い親がいる紅家本邸隣の我が家には帰りにくい。後から知っていたのに何故黙っていたと怒られそうで、事の次第を話さないのも嫌な感じだが、解決策がそんなものしかない状態で報告するのはもっと嫌だ。建物敷地は一応別だから、必ず会うとは限らないけれども・・・・・・ 今夜は近くにいるだけで、心臓が落ち着かない気がした。
 お前の杞憂を真に受けたわけじゃないけれど、邸には行ってやってもいい、と言ったも同然の言葉に、楸瑛は嬉しそうににこりとした。
 色々と腹の読めない男だが、言葉でも態度でも好意を示す類は惜しんだことがない。全く逆の絳攸は、自分で言うのはもちろん相手に示されるのも苦手で、反射的に怒ったような顔になってしまうのだが・・・・・ 照れくさいのはかなわないが、嫌なわけではないのだった。
「君が来てくれるなら、いい休日になるな」
 楽しげな声で楸瑛が言い。
 答えずさっさと軒に乗り込みながら、きっとそうなるだろうと。
 絳攸もその時はそう思ったのだ。



 ―――けれど。
 数時間後、
『大の男が恥らう姿など、うっとうしいだけ。当人達が嫌がっても、見つけ次第強制治療』という禁軍の方針を、絳攸もまた熱烈に支持する気持ちになっていた。
 なにしろ、
「貴様っ! あんなことも言い、こんなこともしたその口で、今更どの面下げて口付け一つが恥ずかしいとか言いやがるっ!! いいから常春、そこを動くなっ!」
 激怒しながら広い藍家の邸中、楸瑛を追いかける羽目になっていたのだから。
 近づけば逃げるくせに、姿が見えなくなるほどは離れずずっとこちらを見ているという性の悪さで、一人先に寝ることもできず。
 夜明け間際、
「それ以上逃げてみろ、貴様っ、嫌いになるぞっ!!」
 とまで喚いて遂に目的を達した時には、文字通り身も心もくたくたで。
「・・・・・・――――せっかくの、初めての、君からの口付けだったのに・・・・・っ!!」
 正気に返った男がなにやら必死に叫んでやり直しを要求していたが、もちろんそんなことは、知ったことではなかった。

【了】