常春常夏 1

1.龍蓮
 もろともに崖を転がり落ちるとは、まったく、自分達らしくないことをしたものだ。
 眩暈が治まって、最初に浮かんだのはそれだった。
 次に思ったのは、重い、ということ。動いた感触はあったから、気を失っているわけでもあるまいに、いつまでも自分の上で、何をぐずぐずしているのだろう。
 目を開けると、見慣れた顔が、ただし数年若いそれが見下ろしていた。完璧な装いで。
「―――愚兄その四、今日は珍しく趣味がいいな」
 気を失ったつもりはなかったが、いつの間に着替えたのだろう。
 まだぼんやりした頭で、不思議に思いながらそう問うと、
「龍蓮。やはりお前か」
 自分の声で、吐息が返った。
 ―――兄が若返って自分の服を着ているわけではなく。
体が入れ替わったのだと悟るのに、さすがの藍龍蓮も数瞬の時を要した。


 そもそもの始めは、珍しく機嫌よく珀明が、自分との外出に応じてくれたことだった。
 髪と目が綺麗で口が悪くて心根が素直なこの同い年の少年と、深い仲になったのは二月ほど前。彼が官吏になって吏部に配属されてすぐの事だ。
 久方ぶりに心の友に会いたくなって出かけて行き。話せば触れたくなって抱きしめたら、珀明の体がぎゅっと堅くなって首筋が染まって。おお、脈がある、と気づいたとたん嬉しくなって、強引に迫って体から落とした。考える時間も、ためらう隙も与えなかった。
 ついでに己の心を自覚する余裕も与えていなかったと気づいた時には後の祭りで、既に二月たつというのに、珀明は自分との仲について、未だに釈然としていないらしい。邸に出かけていって迫り倒せばすることはさせてくれるものの、それ以外に恋人らしいことをしようとしても、なかなか応じてくれない。
 だから今日は、本当に貴重な機会だったのだ。
 気分に合わせて天気は上々、かねてより目をつけていた貴陽からは程近い丘に軒をつけて、ゆっくりと二人きりで散策をした。
 人の手が入っていない自然のままの丘は木立と草原の割合もいい塩梅で、今を盛りの野の花も美しく。自分好みの風流と碧家の美意識の両方を満たす目論見は無事成功して、
「お前にしてはなかなかの選択だ」
 と珀明的に最高の誉め言葉をもらえた上に、笛を吹かれるよりましだからと手まで繋いでもらったりして、そこまでは本当に最高の一日だったのだ。
 雲行きが怪しくなったのは、その日初めて見た人影が、非常に良く知ったものだと気づいてしまった時だったろう。
「―――龍蓮、こんなところで何をしているんだい?」
「いつも通りの愚問だな、愚兄その四」
 手を繋いでこそいなかったが、あちらも同じく二人連れ。目的など同じに決まっている。
 考えてみれば兄の連れも吏部勤め。珀明が今回休みをきちんと取れた理由は、数日前に上司がほんの少しばかりやる気を見せたから。向こうも事情は同じだろう。
 しかし兄なら気の利いた逢引先など山と知っていように、なにも同じ場所に来なくとも、と龍蓮は大変機嫌を悪くした。
 敬愛してやまない大先輩を見た瞬間に、恋人の心がそちらに飛んでしまったのが分ったからだ。
 毎日のように職場で顔くらいは見ていても、まだ新人の珀明が吏部侍朗と言葉を交わす機会は少ない。国試前からの憧れは間近で有能ぶりを見るたび募って、珀明は進士時代よりも彼に夢中である。近況を聞くたびに、どれほど絳攸の名が出たことか。
 一瞬で閃いて不機嫌になった彼の予想通り、つれない想い人は、さっさと彼を置いて憧れの人に挨拶に行き、嬉しげに話し込んでいる。兄と藍邸で話しているのを見かける時には怒ってばかりいる青年の方も、今は穏やかに頷いて、時々綺麗に微笑んで。見上げる珀明はぼうっと上気した可愛い顔で、はにかんだように頬を染めたりして。・・・・・目に楽しい光景だが、どうしてその視線の先にいるのが自分ではないのだろう。そんな風に、彼に見つめてもらいたい。
 二人の間に割り込んでみようとしたが完全に無視され。あまり寂しいので悲しみの曲でも奏でようと思ったら、兄に、久々に剣の稽古でもつけてやろうかと誘われたのだ。
 独占の当てが外れて手持ち無沙汰なのは兄も同じ、体を動かして発散するのも良い事のように思えた。手近の木の枝を折って木刀代わり、将軍職は伊達ではなく兄はやはり強い。全力で打ち込んで寸時に避けて。苛々ともやもやを全てぶつけて熱中するうちに、身をかわされて踏み込んだ先に地面がなかった。まだ一・二歩あると思っていたのは藪の見せた幻で。茂った葉の下に、何もなかったのだ。
 とっさに兄が伸ばした手を掴んだが、勢いがついていたのがいけなかったのだろう。二人して底まで転がり落ちた。
 ・・・・・・そして何がどうなっていたものか、気づいたら体が入れ替わっていて。まったくもって、無粋極まりない顛末だった。
 見回せば、自分達がいるのは川床で、脇をちょろちょろと水が流れている。
 人の背より少し高いぐらいのところに空が見え、斜めに繋がる緑の岸に、一筋くっきりとなぎ倒された跡があるから、そこから落ちてきたのだろう。登るのはそう難しくなさそうだった。
 先に起き上がった兄が、水辺に向かうのが見えて、龍蓮も後を追った。




2.楸瑛
 川の流れは緩く、ぼんやりと己の影が映っている。多少ぼやけているぐらいでは見間違いようがない、「藍龍蓮」の奇天烈な姿が。
 腕を上げれば虹模様の袖が広がり、頭を傾げれば孔雀の羽飾りが揺れる。水面ばかりではない、実際に視界に入る手足も、まだ細い少年のものだ。
 やはり龍蓮が自分の姿になっただけではなく、自分の体も弟のものになったらしい。
 全く想像していなかったわけではないが目の当たりにした衝撃は大きく、楸瑛は深くため息をついた。
(―――笛を吹かせるより、ましだと思っただけだったんだがなあ)
 休暇中に思い立って出かけた先で、弟達と行き逢ったその時点では、楸瑛はさほど失望していなかった。自分を慕っている後輩を気に入っているらしい絳攸の様子からして、しばらく時間をとられるのはしかたなかったが、どう転んでも邪魔されるのは夕刻までのことだ。その間くらい、それも他人がいる時仕様の笑顔など、誰に振りまいても構わない。自分にだけ許してくれる豊かな表情を、あとでいくらでも眺めさせてもらえるのだから。
 しかし、ここで龍蓮に笛を吹かれたら、彼らと別れた夜までも後を引きそうな気がした。珍しく嫉妬などという人間らしい感情を覚えている様子の弟も気に掛かったし、せっかく天気も良いのだし。ちょっとの間、体を動かして双方の機嫌を取ろうと、その程度の気持ちだったのに。
 ・・・・・・しかしいつでも、予想外の事態を引き起こすのが『藍龍蓮』というものなのだ。当人の意図に関わりなく。
 ため息をついて楸瑛は現状を認め、と同時に「今の己」の姿が気になった。
 手を伸ばして、個性的過ぎる髪飾りを外す。ほとんど同時に同じ結論に達したらしい弟が、隣でおもむろに服を脱ぎ始めた。
 しばし黙々と、互いの服を取替え、髪を結いなおす作業に没頭する。最後に川の水で手と顔を洗ってようやく一息ついた。
 自分と弟では背丈・肩幅が一回り違うから、かなり裾が余るのだがこれはもう仕方がない。
 髪に凝っている分だけ龍蓮の方が仕上がりが遅く、楸瑛は、他人の意志で動いている自分の体をしばしの間眺める羽目になった。
 はっきり言って己の体だと思うと情けない有様だ。ただでさえ趣味が悪いことこの上ないのに、丈が足らずににょきりと突き出した素足がまた涙を誘う。かつて女装したときの方が、まだ似合っていた分ましだったのではないだろうか。
 しかし格好の印象が強すぎて、仮にこのまま町に出ても、顔形まで注意がいくものは少ないだろう。表情や身のこなし、纏う雰囲気も、姿見で見なれた己のものとは明らかに違う。その上、もし名前を尋ねられたとしても龍蓮のことだ、体の持ち主のことなどさておいて、己の名しか名乗らぬだろうし。藍将軍の気が触れたと噂が立つ可能性は低そうだった。
(まあ、最悪の場合は、異母弟か従兄弟の誰かが貴陽に来ていることにしよう)
 楸瑛はあっさりそう決めた。
 故郷に帰れば自分と似た他人がごろごろいる。己の意思で動かせぬ体など、それと同じようなものだろう。
 それよりも、問題は・・・・
(絳攸が、この体でも私だと認めてくれるか、だな)
 ひとたび腹をくくれば何事も、柔軟に対応できるが、それまでは物堅いところのある恋人を思う。
 武術の心得はないのに度胸はあって、頭はいいのに擦れてなくて、口は悪いのに優しくて。矛盾ばかりの愛しくてたまらない相手だ。
 出会ったときから惹かれていたが、手を出したら何かが壊れそうで、随分長い間躊躇っていた。勇気を出して本気で口説くことが出来たのは、王の双花菖蒲と並んで誉れを頂き、もう多少無理を望んでも離れることはない、それだけの絆が築けたと、確信が持ててからだ。だから彼を自分のものと呼べるようになって、まだ一年もたってはいない。
(せっかく、今日明日は二日続きの休暇だったのに)
 吏部侍朗の役職に加え王の側近としての仕事をこなしている現在、恋人は果てしなく多忙である。さらに養い親の個人的な用に潰されない休暇と来たら本当に稀なのだ。
 数日前その吏部尚書が珍しくやる気を出して(多分彼の大事な兄に何か言われたのだろう)、仕事が片付いたから休暇が取れる、二日ともお前に付き合ってやると絳攸から言われた時は夢かと思った。間違いなく、絳攸自身よりも、自分の方が楽しみにしていたのだ。
 だのに。
 なんと切り出せばいいのかと迷う楸瑛に、
「愚兄。なにをぐずぐずしているのだ。戻るぞ」
 身支度を待ってやっていた弟から、相変わらずの高飛車な声が掛かった。




3.絳攸
「―――だと思うんですが、絳攸様」
「ああ、そうだな」
 立場上贔屓にするわけにはいかないが、今年の新人の珀明は仕事熱心で頭も良くて、なかなかの当たりだ。休日に上司に出くわすなど煙たいだろうに、にこやかに話しかけられて、絳攸はつい話に引き込まれた。並んで草の上に座り込み、配属2ヶ月めの相談事は己の身にも覚えのあるものばかりで懐かしい。
「そういう時はこっちから話を通すんだ。俺が一筆書いてやるから・・・・」
 話しながらふと、楸瑛がいないことに気づいてどきりとし、目の前の珀明に視線を戻してほっとする。大丈夫、一人ではないから、帰るのに困ることはないだろう、多分。
 もうかなり前になるが、楸瑛と出かけて知らない街ではぐれたことがある。結局は合流できたのだが、随分探した。それがどうもわざとやられた印象で、以来、時々意地が悪くなる相棒と出かけるというと、どうにも警戒心が先にたった。今回も、たまには日に当たらないと体に悪いと強く誘われ。見晴らしのいい場所ならばと条件をつけて応じることにしたのだが。
 ・・・・・中々会えなかった昔ならともかく、今は毎日だって迷子の君を探しにいけるのに、出先でまでそんなことしないよ。ずっと傍にいるからね、などと。
 やくたいもないことを囁いて、事実さっきまでそこにいたはずなのに。絳攸はつい目で探した。それで気づいたように珀明も、首をかしげて、
「龍蓮の奴、どこに行ったんだろう」
 小さく呟くのが聞こえた。
「藍将軍に迷惑をかけていないといいが」
 まるで保護者のような言い草に、絳攸はおかしくなった。
「・・・・だとしても、あいつは実の兄だからな。慣れているだろう」
 お前が気にすることはないさと笑うと、珀明がかっと赤くなった。今頃、己の発言の意味するものに気づいたらしい。
「随分、仲がいいのだな」
 微笑ましく思って揶揄すると、凄い勢いで首を振られた。
「ただの腐れ縁ですっ! たまたま国試の予備宿舎が一緒だったから、それだけの縁ですからっ!」
 むきになって主張するので、
「そ、そうか」
 絳攸も頷くことしか出来ない。それだけで休みの日にこんなところまで出かけてくるのかと突っ込んでみたいが、それを言い出したら己はどうなのだという話だ。
「そうだな。国試の時というのは、思わぬ縁ができるからな」
 控えめに、同意するにとどめた。
 何しろ己も、宿舎で隣室、会場でも隣席、及第時の席次まで並んだあの男とは、続く進士時代も何かと組で扱われ。ついには下賜の花まで一揃いだ。
 枕を並べて目が覚めた朝、腐れ縁とは恐ろしいものだと呟いたら、もうとっくに運命だよと常春頭に笑われた。そんな恥ずかしいこと、絶対認めてなんかやらないけれど。
「絳攸」
 聞き慣れた抑揚を、耳慣れない声音で呼ばれて振り向くと、今まさに思い返した記憶の中の姿が近づいてくるところだった。
「絳攸」
 もう一度名を呼び、隣に屈んでにこりと笑う。出合った頃そのままの顔でそのままの笑みで。
「お前・・・・・」
 何でいきなり若返ってるんだと問う前に、
「龍蓮、絳攸様を呼び捨てにするとはどういう了見だ!」
 先に珀明に怒鳴られてなお混乱する。
「え? 龍蓮ってこんな顔なのか?」
 奇抜な髪型や身に纏う極彩色ばかり印象が強くて、あまり顔立ちなど意識したことがなかったが。まともななりをしているところを見れば、随分似た兄弟だ。間近にある顔をよくよく見れば、やや目尻が下がっている気がするし、唇も薄いように思うが、ほぼ記憶の中にあるがままといって差し支えない。特に、困ったように笑うその雰囲気が。
「うん、驚かずに聞いてほしいんだけれどね」
 楸瑛のものとは確かに違う声だが、甘く柔らかい響きも似ている。
「珀、私はこっちだ」
 不機嫌な声に釣られて振り向くと、もう一人の男が近づいてくるところだった。
「藍将軍まで、なにこいつの悪ふざけに付き合ってるんですか!」
 見るなり目をむいて珀明が怒っている。
 身長・肩幅・顔形、確かに先ほどまで傍にいた男のもので、それが龍蓮のなりをしているのだから、真面目な後輩が怒るのはわかる。わかるがしかし。
 絳攸にはどうしてもその男が、長年知っている己の相棒には思えなかった。死んでも着そうにない服を、丈も合わないのに纏っているからというだけでなく。眉間に寄せた皺、拗ねたような口元、表情の逐一に馴染みがないからというだけでなく。ただ強烈な違和感が。
 ―――これは違う。この男は違う。
 絳攸は再度振り向いて、自分の傍に屈んでいる小さい方の楸瑛を見た。珀明はこれを龍蓮と呼んだが、多分そう考えるのが筋が通っているのだろうが、それでも、やはり。
 こちらの方が、自分が知っている男に近い。
「あー、絳攸」
「この常春頭!もたもたしてないで、さっさと何があったか説明しろ、楸瑛!」
 とうとう我慢できなくなり、正面から見据えて怒鳴りつけると、『楸瑛』は一瞬驚いた顔をして、それから実に嬉しそうに笑った。

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