常春常夏 2

4.珀明

 ・・・・・人間あんまり驚くと、頭の中が白くなるって本当なんだなあ。
 ぼんやりと、珀明はそう考えた。
 衝撃のその一は、声を荒げる絳攸を初めて見たことで、しかしまあこれは予告済みのことでもあった。
 吏部に配属された当初、思い描いていた通りの「絳攸様」の立ち居振る舞いにうっとりしていたところ、先輩官吏たちから、ああ見えて絳攸様は激しい方だ。それを垣間見れるようになったら身内に数えてもらえたということ、まあ覚悟しておくのだな、と脅されていた。
 実際この日の絳攸の、『楸瑛』に対する物言いには本当に容赦がなくて厳しくて、さすが悪鬼巣窟の吏部侍朗、と思わせる迫力があった。
 しかしそんなことは、その怒鳴りつけられた相手が、龍蓮にしか見えず。そのくせ当人も、自分は楸瑛だと主張した衝撃に比べれば、ごくごく些細なことだった。魂が入れ替わったなどと、真顔で主張されても信じられるわけがないのに、絳攸もそれで納得してしまうし、龍蓮の服を纏っている時点で奇妙な藍将軍も、その通りだという。
 珀明にとって不幸だったのは、彼が碧家の出で。歌舞音曲のみならず、書画についても堪能で、物の造形について細部まで記憶力に優れていたことだろう。
 確かに、服装も物言いも表情も、帰ってきた龍蓮は全く龍蓮らしくなかったが、それでも、視覚の全ては、これは自分の人生に最も強烈に割り入って居座った傍迷惑男だと断じて揺らがなかったし。いくら自分たちしか知らないはずのことをすらすら語られても、遠くから仰ぎ見ていた王の側近を、自分の恋人だとみなすのは難しい。
 どうしたらいいかわからなくなって黙り込んだ珀明を、困ったように『龍蓮』が見ている。珍しくしょげた様子に心が痛む。けれどもそれ以上に、蕩けそうな目で絳攸を見ている『楸瑛』の方が気に掛かる。あの顔でもあんな表情ができたんだなあ、という感慨。傍で見ていてあてられそうな甘い笑みに、前々から聞いていた、王の双花菖蒲はただならぬ仲だという噂の真実を知る。憧れの人の秘密など、知りたくはなかった。絳攸に恋人がいたこと自体が衝撃だ。
 おまけに見た目上は龍蓮が絳攸と恋仲であるようにしか映らない。他の誰でも嫌には違いないが、選りに選ってあの龍蓮が、絳攸さまを口説いているなんて生意気だと思うし。・・・・・また、あまり認めたくないことだが、自分以外の人間をあの龍蓮が、うっとり眺める図というもの自体が非常に不愉快だった。
 どちらの不快が勝るのか、比重は自分でも良くわからない。いったいいつの間に自分はこんなにこの歩く非常識を好きになっていたのだろう。我ながら、悪趣味にも程がある。
「大丈夫だよ、絳攸」
 龍蓮の声の癖に、聞いたこともない柔らかな響きで、『中身は楸瑛』が恋人を宥めている。
「ものの本には時折この種の不可思議が載っているけれど、皆すぐに元に戻っているし」
「そんなものが当てになるか馬鹿。戻らなかったらどうするんだ。そこのお前の『弟』に、将軍職が勤まると思うのか」
「まさか」
 『楸瑛』は龍蓮の顔で鮮やかに笑った。
「その時は『楸瑛』は藍州に呼び戻されて、貴陽には代わりの異母弟が来ることになるのさ。うちは兄弟が多いから、一人くらい増えても誰にも判らないよ。大丈夫、何がどうなっても、私は君の傍にいるからね」
 それさえ抑えておけば天下安泰、といわんばかりの幸せそうな言い草に、
「この常春頭が」
 絳攸がこぼした。頭が年中春。言いえて妙だ。
「愚兄その四、勝手に決めるな。私だとて、我が心の友から離れるつもりはない」
 楸瑛の声でそう言って、『龍蓮』が後ろから抱きしめてくる。対抗心が出たらしい。
「別に構わないよ、龍蓮。お前が私の名を名乗りさえしなければね」
 どうせ数年後にはその姿なんだし、今から似たのがうろついていても大差ないだろうと、藍家の四男はあっさり流した。非常識なのは弟だけかと思っていたが、似ているのは顔だけではないようだ。いい面で発揮されれば肝が太いというのだろうけれども、元に戻らなくても全く問題ないと本気で思っていそうで、少し怖い。
「愚兄の名など名乗るわけがなかろう。私は私だ」
 胸を張って答える龍蓮も、いつものごとく少しずれている。普段から頓珍漢な上に、自分自身には無頓着なところがある彼のことだ。体が少々変化したところで、本気でどうとも思っていないのかも知れない。
 兄の頭が春ならば、こいつの頭はいつも夏だ。年中煮えていて訳が分らない。
 珀明は不意に、悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
 龍蓮の奇天烈さは今に始まったことではない。まして当人達がこうも平気だというものを、自分ひとりがおろおろと心配してどうなると言うのか。絳攸様だって、明らかに腹を立てているようだけれども、状況は受け入れているというのに。
「龍蓮」
 珀明は振り仰いで、自分を抱きしめている長身の男に呼びかけた。
「お前、本当に大丈夫なのか」
「勿論だ。愚兄も先ほど言っていたように、この手の不思議は長く続かないと相場が決まっている。もし長引いても、手段がないわけではない」
「そうか」
 珀明は短く頷いた。龍蓮の考えていることが判らないことは多々あるが、言ったことを守らなかったことはないのを思い出す。
 ならば、元に戻る手段はあるのだろう。
 そして、彼をその気にさせるやり方ならば・・・・・・少々、思いついたことがあった。



5.楸瑛

 このまま何もない野原でぼんやりしているわけにもいくまい、とりあえず一度引き上げよう、という話になり。
 こいつは俺の屋敷で引き取ろうと、絳攸が自ら言ってくれたので。楸瑛の上機嫌はいや増した。
 照れ屋の絳攸は普段愛情表現に乏しくて、時々、腕の中にとどまってくれているのは、ただ己が抱きしめて離さないからなのかと疑う時もあった。それが、こんな姿になっても見分けてくれて、変わらず接してくれるなんて。愛されているのだと実感する。その幸福感に比べれば、全ては些細なことのように思われる。
「この常春が、この事態なんだ、ちっとは浮かれてないで真面目になれ」
 入れ替わった状態のお前とそいつを、並べて藍邸に帰してはどんな騒ぎになるかが見えているから、うちに呼んでやるだけなんだぞ、と渋い顔で念を押されるが、そんなに親身になって心配してくれることそのものが嬉しいのだから、深刻になれといわれても無理な要求だ。私の気持ちが本当にわからないのかな、と緩みがちの頬を引き締めつつ見つめれば、怒ったようにぷいと顔がそらされて。多分分かっているのだろう、それでも心配するのをやめられないのが悔しいと、これはそういう表情だ。楸瑛はますます気をよくして微笑んだ。
 絳攸の小言が途切れると、背中にべったり龍蓮を張り付かせた珀明が、ではこの孔雀男は僕の家へ、と諦観のこもった声で言う。
「普段からうちの家人はこいつをみると近づかないので、少々でかくなっても気づかないと思いますし」
 日ごろの苦労がしのばれるようなことを少年は付け加え、弟が見つけたのがいい子で良かったなあと思った楸瑛は、その気持ちのままにっこり笑いかけた。大変だろうけど、うちの末っ子をよろしく頼むね以上の意味はなかったが、見事な金髪の少年の、色白の頬がぽうんと赤くなる。背中に張り付いたままでは見えなかろうに、珀明を抱きしめたままの龍蓮が不快そうに睨みつけてきて、その本気度合いに安心する。そうそう、大事なものは手放しちゃ駄目なんだよとそんな弟にも笑みかけて。何年育っていようが、いやもとい、自分の体だろうが、ちゃんと弟に見えるなあとのんびり思った。・・・・・・まあ龍蓮の個性の強さに比べれば己の顔形の印象が薄いという話なのかもしれないが、そのことの是非はこの際置いておきたい。
 そんな視線だけのやり取りに気づいているのかいないのか、
「うちの連中にはそうは行かないだろうな。こんなに似ているんじゃ、赤の他人でも通らないだろうし。しかたがない、何人いるんだか知らないが、弟だということにしておこう」
 自宅の家人が『藍楸瑛』なら見覚えているはずだと思い至ったらしい絳攸が、そんなことを一人決める。
「お前、その程度の芝居をする気はあるんだろうな」
 危機感の薄さを責めるようにそんな念押しをされるが、
「君の側にいられるなら、どんなことでも」
 楸瑛は本心から請け合った。
 ・・・・・・ここに弟たちがいなかったら、とっくに抱きしめて口付けをしているのに。早く二人だけになって、彼に触れたい。


 しかし。その日はやはり基本的に「ついていない」日だったらしく、思うよりも二人きりになれるまでは時間がかかった。
 軒のところまで行けば別れるのだからと思っていたが、吏部官二人が気を回し、藍家の軒に兄弟を並べて近づかせるのを嫌がって、碧家の軒の方に同乗するからと御者ごと帰してしまった。多少のことで動じるような家人は使っていないと主張してはみたが、これが多少のことだと思っているのが信じられぬと恋人ににらまれては、引き下がらざるを得ない。
 軒を降りて、絳攸の屋敷に通されてからも、茶だ食事だと始終家人が出入りする。いつもならこんなに張り付いていないのに、今日に限ってと給仕の途切れた隙に愚痴ったら、いつもと同じはずないだろうがと返された。言われてみれば、既に主の親友として認知されている『藍楸瑛』ならともかくも、見知らぬ『藍家の男』に対して接客の手が抜けないのももっともだ。
 そんな入れ替わりで立ち働く家人たちに口止めもしていないくせに、
「・・・・・・きっと今頃、四男だけならまだしも、他の兄弟まで泊めてやるなんて、どこまで藍家に深入りするつもりなんだって思われているんだろうな」
 そういって絳攸が切なそうに溜息をつく。思うの主体が黎深なのは語られずとも明らかで。
「君の交友範囲まで、紅尚書は一々口出しなさるのかい?」
 むっとして訊ねれば、
「黎深さまがそんなこと、なさる筈がないだろう」
 きっぱりと返された。言われはしないが気になる、ということか。ますます悪い。
 いつもいつもそんな風に、意識するよりも深く恋人が養い親に縛られているのをみるたび、楸瑛は闇雲な妬心に駆られる。同じ次元で争っているわけではないのは知っているけれども、このまま一生自分は彼に勝てないのだろうか。
 食事の膳が下げられて、やっと二人きりになったのを待ちかねて。愛しい人の側に身を寄せて手を重ねた。物思いに沈んでいた絳攸がさっと顔を上げる。
「だ、駄目だぞ、今日は!」
「どうして? 隣に紅尚書がいらっしゃるから?」
 吏部侍朗に昇進した際に構えた絳攸の邸は、庭も含めて一応独立した作りになってはいるが、黎深の住む紅家貴陽本邸とは地続きだ。
 もはや一人前となった証に独立させて、しかし手放す気はないという養い親の執着が見えるその構造を、楸瑛は正直面白くなく思っていたから、恋仲になって以来、夜を過ごす時はいつも藍邸の方へ呼んでいたのだけれど。
 もういい加減、そんなことに気兼ねせず、己だけを見て欲しかった。どんな姿をしていても見分けてくれるほど、彼の心が自分にあると示してくれた今日くらいは。
 何が何でも今君が欲しいんだという思いを込めて、絳攸を見つめる。
 が。
「馬鹿。お前、今自分がどうなっているのか、本当に忘れているのか?」
 あきれたように言う絳攸の言葉は、黎深とは全く関係のないもので。
「え?」
「龍蓮の体なんかで、俺に触るな」
 重ねた手を掴み返されて、我が手を見直す。いつもより一回り小さく、絳攸の手とほとんど同じくらいの掌は、確かに見慣れぬものだけれども。
「でも、この体を今動かしているのは私だよ?」
 健康で、まともに装えば見栄えだって悪くない体で、なにより自分の思う通りにちゃんと動いているので。全く忘れていたわけではないにしろ、特に問題なしと判断していた楸瑛は、思いがけないところから出てきた不都合に困惑する。
「龍蓮の意識は今この体にはかけらもないから、私がなにをしても、君がどう返しても、あの子には知りようがないのだし、関係ないと思うのだけれど」
 もし弟と共存しているような状態で、感じたことが伝わってしまうのなら、もちろんこれ以上を仕掛けたりはしない。絳攸の肌の感触も、抑えた声も、全部全部、自分だけが知っていればいいことで、甘い時間の一瞬たりとも他人と共有するつもりはないからだ。
 だが入れ替わった今の状態では、自分が見聞きしたことが龍蓮に伝わることはまずないだろう。それならやはり、問題はないと思うのだが。
 説明している最中から、絳攸の顔がけわしくなって、頭の中でこの常春がと怒鳴っているのが手に取るように分かった。
 しかし現実には静かな声で、
「そうか。お前がいいんなら、俺もいいけどな」
 そう言って、そのくせ楸瑛の足を蹴りつけた。
「龍蓮は知らないが、俺の方には確実に記憶が残るんだぞ。元に戻ってから、お前の弟を見るたび妙なことを思い出すのは、俺は嫌なんだが、まあ、お前が気にしないって言うなら、どうにでもすればいいさ」
「―――えっ・・・」
 楸瑛は思わず絶句する。
 ・・・・・・これまでの行状からして訊ける立場ではないから、口に出して確かめたことこそなかったが。絳攸が自分以外の人間と、口付けすら交わしたことがないのは明白で。別にそうでなかったとしても愛しさに変わりはなかったと思うけれども、その事実に自分の中の独占欲が深く満たされている自覚はあった。
 自分だけが、黎深さえ知らない彼の体の甘さを知っている。・・・・・・いつもそういう文脈で捕らえていて、今龍蓮の体のまま彼を抱いても、それは同じだと思ったのだけれども。
 言い換えれば、絳攸が知っているのは自分だけ。彼の快楽と結びついているのは己だけ。改めて指摘されてみれば、それを捨て去るのはあまりにも惜しい。
「―――どうするんだ?」
 畳み掛けるように恋人が詰め寄ってくる。間近でみる細い首筋に口付けたい。しかし絳攸の言うとおり、他の男の体で口付けたくはない。
 相反する欲望に、ううんと唸ったその時に。
 ぱん、と部屋の扉が開いて。
「愚兄! さっさと元に戻るぞ!」
 碧邸に行った筈の、龍蓮が現れた。


6.龍蓮

 絳攸邸で兄達を下ろして、二人きりになった軒の中、龍蓮はぺたりと珀明に張り付いていた。自分でも理由は判らないが気持ちがもやもやとして、そうせずにはいられなかったのだ。
 兄達がいる間も本当はずっとそうしていたかったのだが、軒に乗った際に逃げられた。軒内は狭く、絳攸の隣に座られては、割り込む余地がないのは明白で。まして今の体は、普段よりもでかく邪魔になる。しかたなく、兄達が軒を降りるまでは我慢した。
 けれど慣れぬ我慢などしたものだから反動が出て、軒内にゆとりが出来るや否や愛しい恋人を背中から抱きしめた。もう今夜は一時も離れたくない。
 先ほどは邪魔なばかりだと思った図体だけれど、今こうしていると腕が長い分、細い少年の体を余裕を持って抱きこめてよい。
 ちょうど良い位置にある肩に顎を乗せて、うなじに頬を擦り付ける。抱きしめた背中から伝わる温もりと鼓動。それだけで、ささくれた気持ちが少しづつ解けていく。
 妙なものだと思う。心の友たちと出会う前、龍蓮の世界は単純で、物事は全て明快だった。何事につけ原因も結果も先行きも、彼には瞬時に見通せたが、だからどうということはなく。世界の全ては、彼と関わりのないことだった。
 けれどこのところ、分かっているだけでは十分な心の安寧が得られない。
 例えば今だって、自分に対する珀明の愛情が、兄に対する絳攸のそれに劣らぬことを、龍蓮はよく承知しているのだ。確かに珀明にはその自覚はないし、事物の造詣にことのほか捕らわれがちだから、今の自分を見分けるなんてこともしてくれなかったが。それでも十分愛されていることを、龍蓮は知っている。
 だのに、珀明が己の体になった兄ばかり見つめているのがつらく、体が違うというだけで自分に対してぎこちないのが寂しかった。理にかなわないことだと承知していても、すねた気分になるのを抑えられない。
 そしてまた、その不満がこうして黙って触れているだけで薄れるということも。何の解決にもなっていないのに、不思議なことだと思う。
 これまで感情の発散といえば龍蓮は笛を吹くしか知らなくて、音色と共に心の中の細波が宙に散っていくさまは、感覚的に納得できた。けれどそうした己一人のことと、温もりだけで受け止めてくれる相手がいるということは、なにか根本的に違う気がする。
 考え込むうちに軒は碧邸に到着し、珀明の肩を抱えるようにしたまま龍蓮は、恋人の部屋へと向かった。主を出迎える家人たちが、独特ななりの龍蓮を目にするなり慌てて面を伏せる。見てはならぬものの扱いなのは今に始まったことではないので、龍蓮は気にもとめなかったが。

 やがて珀明が自室として普段使っている続き間についた。気に入りの長椅子に並んで腰掛け、改めてぺたりとくっついてみる。落ち着いたところで、いつも何かと口を挟む珀明がほとんど口を利いていないことに今更気づいた。
 どうしたのだろうと恋人の顔を覗き込むと、しっかりと目が合う。もの問いたげな顔を見るに、どうも珀明の方も、自分から離れたがらない龍蓮を案じていたらしい。別に、体が変わったから落ち込んでいたわけではないのだが、そのように思われたのなら心外だ。
「言っただろう、珀が心配することはないと」
「無理を言うな。こんなことになって、心配するに決まっているだろう」
 怒りんぼ将軍な恋人がいつものようにつけつけ言うので嬉しくなる。彼の怒りはいつも暖かい。このまま八つ当たりのような説教を聴いていようかと思ったが、綺麗な緑の瞳の中に、不安が見え隠れしたので説明くらいはすることにした。
「なに、落下の衝撃で魂魄が浮き上がった時に、側にいた相手と入れ替わっただけだ。本来のものではない不自然な状態だから、すぐに戻る」
「本当か? 妙になじんでないか、お前も藍将軍も」
 言われて考えてみる。確かに体に違和感はない。兄の方が視界が上だったり、力が強かったりはするので若干勝手が違うがそれだけだ。やはり血が繋がっているのでいろんな部分が近いのかもしれない。
「うむ。不快感はないな」
 嘘のつけない龍蓮はつい肯定してしまい、珀明の機嫌をますます悪くした。
「けろっと言うな、孔雀頭。お前なあ、仮にも【藍龍蓮】なんだろう。このままもし戻らなかったら、お前のところの当主様方だってお困りになられるだろうが」
「いや、その心配は不要だ」
 龍蓮は恋人の顔をまっすぐ見つめた。
 ・・・・・・この体の本来の持ち主である楸瑛ならばこんな時、宥める相手の手でも握ってにっこり笑って見せただろうが、森羅万象全ての真髄を知る「天つ才」には、かえってそういう小手先の技が思いつかない。故に正面から否定したのだが、さすがに言葉が足らぬことに気づいて付け足した。
「入れ替わったのが余人であれば確かに、【血の繋った赤の他人】をふらつかせておく訳にもいかぬだろう。だが四番目と五番目が入れ替わったところで、体も魂もどちらも弟。ならば何一つ問題はない」
「・・・・・・そうか。本当に、問題ないんだな」
 安心させようと思って言ったのに、なぜか珀明の目が据わっている。これは理解してくれたということなのだろうか、どうなのだろうかと考える。
 と、恋人がそれは綺麗に笑った。
「では、僕も深く考えないことにしよう。ここにいるのはお前で、見掛けが少々違うとしても、そんなことには何の問題もない。僕はいつもどおりお前を扱っていい。そうだな」
 声音の中の何かが引っかかったが、言葉そのものは先ほどから龍蓮が望んでいた通りのことだ。
「う、うむ」
 頷くと、珀明がつと身を寄せてきた。彼の方から近づいてきてくれるのは稀なことで、どきりと心臓がはねる。間近で見る心の友その三は、いつもながらなんと綺麗な面立ちをしているのだろう。
「龍蓮」
 やわらかく名を呼ばれる。掌を合わせるように、手を取られて指が絡んだ。そのまま親指でそっと手首を愛撫される。いつもより大きな自分の手に、色白の少年の手はいかにも華奢に見えた。
 もう片方の手がそうっと顎に添えられる。いかにも大事そうに触れられて酷くくすぐったい。口付けをねだるように、指先がそっと唇を往復し。
 珀明の顔がすっと近づいてきたところで、はっと我に返った龍蓮は慌てて肩を掴んでさえぎった。
「珀。何を考えている」
 普段はつれない、意地っ張りで恥ずかしがりやの恋人が、ついに己の心に正直になってくれたと考えるにも不自然がすぎた。
 口付けを邪魔された珀明はつんと口を尖らせる。それがくらくらするほど可愛くて。
「僕から口付けてはいけないのか? これはお前の唇なんだろう?」
「それは、そうだが」
「だったら問題ないだろう。相手はお前なんだから」
 静かな笑みをたたえたまま繰り返されて、龍蓮ははっと閃いた。
「珀、まさか珀は愚兄その四が好きなのかっ!」
「まさか」
 焦った問いに想い人は軽く肩をすくめた。
「もしそうだったら、僕は絳攸さまと恋敵になってしまうじゃないか。そんなのはごめんだ。―――それに大体、僕は浮気は嫌いなんだ。お前とでなければ、こんなことはしない」
「う、うむ」
 言葉だけ取れば嬉しいことを言われているはずなのに、なぜかほっとできなくて、龍蓮は混乱気味に眉をひそめた。
 そんな彼を見て珀明はまた笑い、ゆっくりと告げる。
「僕は浮気はしない。お前の浮気も許す気はない。・・・・・・だけど、お前がわざわざ、絳攸さまと間接的に口付けてもいいと言ってくれているものを、逃す手もないからな」
 ―――虚を突かれた龍蓮は、とっさに返す言葉もなく。
「龍蓮?」
 さあどうするんだと言わんばかりに名を呼んだ珀明に、かろうじて、
「前言は撤回する」
かすれた声でそれだけを告げると、猛然と外へ飛び出した。



7.絳攸
 月もすでに傾き果てて、静寂が耳に痛い深更に、絳攸は幾度目かのあくびをかみ殺した。
 引きさらうように兄を連れ出した藍家の末弟の剣幕からして、すぐに片をつけて戻ってくるかと思ったのに、相棒はなかなか帰ってこない。
 先に湯を使ったり、気にかかっていた書を読んだりと時間をつぶしていたのだけれども、あまりに遅いので待ちくたびれた。
 まああの二人が揃っていれば、盗賊夜盗の類に会ったとしても滅多なことにはならないだろうが、帰ってこないのは元に戻れないということだろうか。戻る努力はしてほしいが、徹夜で駆けずり回って欲しいわけでもない。一通り試してみて駄目ならば、休息をとりに帰ってきても別に責めはしないのだが。
 ・・・・・・一人だけ安穏と待っていることは気が咎め、せめて顛末を見届けるまでは起きていようと思っていたのに、連日の残業と昼間の騒動で、相当疲れていたらしい。
「―――絳攸、絳攸。風邪を引くよ」
 聞きなれた声にふと目を覚まして、己がうたた寝していたことに気づく。眠い目をこすって面を上げれば、普段どおり、嫌味なほどの伊達男が映る。一瞬全てが夢だったのかと思ったが、
「遅くなってすまなかったね。なかなかうまく戻れなくて」
 そう告げたところを見るとやはり本当にあったことなのだろう。
「どうやって戻れたんだ?」
「同じ場所で、崖から落ちてみた。魂魄が遊離しやすい原因が、何かあの辺りにあったのなら、同じことをすればよい筈だとあの子が言うのでね。・・・・・・だけど、最初の時と違って落ちると分かっているものだから、つい受身を取ってしまって・・・・・・ 何度かかったんだったかなあ。まいったよ」
 珍しく本当に疲れたようにそうぼやく。言われてみれば幾度も落ちた名残なのだろう、頬にかすかな擦り傷があった。そうっと触れると、
「酷いだろう? 私はあの子の体に傷が付かないように気を配ってやったのに」
 弟の方では、兄の体のことなど構ってはくれなかったらしい。
「・・・・・・それでも、戻れてよかったじゃないか」
 本心から慰める。楸瑛の、武人らしい大きな体が抱きしめてきて。普段は悔しい体格差が、今は心地よかった。
 しかしその胸からふと馴染んだ香が漂って、絳攸を我に返らせる。幾度も崖から落ちたにしては、楸瑛の身なりが整いすぎていた。
「お前・・・・・・人が心配して待っててやったのに、どこに寄ってきたんだ」
「ああ、ちょっと家にね。だって仕方がないだろう、あんなどろどろの格好で、君の前に顔なんか出せないよ」
 当然のことのように言う。遅かったのは家に帰って湯浴みをして、しゃれめかしてきたかららしい。案じていた己が馬鹿のようで、絳攸は脱力した。まったくこの、常春頭はどんな状況でも変わらない。
「お前の弟もか?」
「もちろんあの子もどろどろだったから、着替えて行ったよ。ただあの子は湯が沸くまで待ってはいないで、水で済ませていたけれど。それに、気に入りの羽がぼろぼろになったので、随分嘆いていたな」
 だからといって髪を下ろしたままにするはずはなくて、相変わらずこれぞというもので飾り立てて出て行ったらしい。
 ・・・・・・ではきっと今頃、碧邸でも孔雀頭とののしる声が響いているに違いない。完全にいつも通りの相手にいつも通りの苦情を言うことが出来て、珀明もさぞ安心しているのではなかろうか。
「常春」
 いつものようにそっけなく呼んで。
「なんだい?」
 いつものように甘ったるいほどの微笑で答えた相手を抱きしめる。
「・・・・・・明日も休みで、よかったな」
 貴重な連休の一日は無駄にしてしまったけれど、取り返す時間はあるのだから。


<後書き>
もっとさらっと書けるはずだったのに、思いがけず長くなりましたが、やっと完結です。
末尾ではありますが、綾羅木の市子さまに謝意を。
サイトに掲載された素敵なとりかえばやの後に、誰か他の入れ替わりものを書かないかとの一文を拝見しなければ、この話は生まれませんでした。ありがとうございました。