君の為に

 珍しく全ての仕事が気持ちよく片付いて、とりどりの花が満開の様に、そんな季節かと気づく夕べ。
 紫州貴陽は王宮にも程近い、楸瑛個人の邸で、絳攸はこの家の主と酒を酌み交わしていた。
 先年藍本家と義絶した四男坊は、それ故に藍家本邸には入れぬ身となったけれども。もともとその時点での彼名義の私財も莫大だった上、王の側近にも将軍職にも程なく返り咲いて、傍目にはさほど変わりなく過ごしているように見える。東屋から見える庭は手入れも行き届き、主好みの粋な設えで、季節の美しさを十分堪能させてくれた。
 本邸と比べると随分手狭なんだよと主は謙遜するが、それは比べる方が間違いというものだろう。中規模程度の貴族の格を整えている、絳攸の邸よりそれでもまだまだ広いのだ。
 夜になって少し冷えてきたが春の風は優しく、酒も料理も申し分なく旨く。差し向かいに据わるは年来の友。
 くつろいで、身近な人々や町の様子などあれこれと、思いの向くままに話していた時。
 今度の休暇に故郷に帰ろうと思うんだよね、と、楸瑛が言い出した。
 のんびりした口調に、そうかと軽く頷いて。絳攸はふと、楸瑛がそんな風に軽く家のことを語るのは、藍家と縁を切ってからのことだと気がついた。
「お前結局、家をでて何が変わったんだ?」
 騒動の最中は聞けなかったことを訊ねてみる。
 当主達の元に話をつけに戻った当初こそ、様々な波紋があったようだが、それが収まってみれば、兄弟間の連絡はむしろ密になったようで、かつては聞いたこともなかったような、何番目がどうしたこうしたという話を、楸瑛は時々洩らすようになった。黙っていても血族という甘えが互いになくなって、言葉を交わすことが増えたようだ。
 内の結束の固い一族だから多くは語らぬが、切れ切れのそうした話から絳攸が理解できた限りでは、楸瑛には当主の相続権がなくなって、親族会議での発言権も失ったらしい。
 しかし王の側近・禁軍将軍の地位を回復した時点で、少なくとも紫州内での権力は従前に戻っている。
 妙なもので、どうもその、王都での権力がありつつ当主相続権がないことが、むしろ親族からは頼りやすくさせたらしく。なんだかんだと相談も持ちかけられて、名目上はともかく実質の上では、一族の中での立場が悪くなったようには見えない。
 対外的にはもともと四男の彼の相続権など意識されることのないものだったので、なんとなく外部のものの「藍家の若様」という扱いもそのままである。
 絳攸からしてみれば、あれほど大騒ぎした意味がどこにあったかと思う。
 素朴な疑問をぶつけると、楸瑛は笑って答えた。
「全然違うよ、絳攸。私が失ったのは双龍蓮泉を発行する権利。見返りに私が得たのは、当主命令からの自由。―――言い換えれば、私はあれでようやく、いつ何のために死ぬのかを、自分で決められるようになったんだ」
 それまでは、何をするのも自由に見えて、家の為に生き、家の為に死ななければならないことは決まっていたからね、と言う。
 今ようやく自分は自由で。主上の為に死ぬこともできるのだ、と。
「そんなことを言って、それでも結局、お前は藍家に不利になることはしないし、何かあったら一族の為に戦うんだろう?」
 やはりそれでは同じことのように、絳攸は思う。
「そうだよ。でもそれでもし、私が命を落とすことになったとしても、それは兄弟達の為に自分で決めたことの結果で。当主命令に従ったからではないんだ」
 重ねた絳攸の問いに、心から満足そうに楸瑛が笑う。
 ただそれだけ、自分で決めたことを貫けるという、それだけのことが、そんなにもこの男にとっては重いのかと。
 今更のように絳攸は驚く。
 紅家に育った自分だけれど、振り返れば絳攸の忠誠は黎深個人にあり、養い親への敬愛の故に逆らえないのであって、当主としての強権を振るわれたことはこれまでなかった。
 だからつい、王への接し方も、そんな風に個人の繋がりを示すようなものになってしまったのだけれど。
 ―――好意から出た行動が、他に選択の術がないからとしか受け止めてもらえなかったら、それはつらいかもしれない。
 ごく漠然と、絳攸は楸瑛の葛藤を理解した。・・・・・・それにしても、そんなことがそこまで気になるとは、彼は自分が思っていたよりも、真摯で誠実なのかもしれない。
「・・・・・・だからね、絳攸。今の私なら、もちろん君の為にだって死ねるんだよ。君への想いは掛け値なしの本気だ」
 絳攸がせっかく心の底で見直してやったと言うのに、楸瑛は前に変わらぬ常春っぷりで切々と口説いてくる。
 いや、言葉も表情も前と変わらぬ軽さだけれど、確かに戻ってきて以来、楸瑛の目は本気だった。女がらみの噂もぴたりと絶えて、精悍さを増した面差しに、日々少しずつ、絳攸の心にも揺らぐものがある。
 しかしまだそれを己に認めるのは悔しくて。
「別に、お前の命なんぞいらん」
 言い切ってから、思いなおして付け加えた。
「お前、本当に俺のことが好きだと言うのなら―――俺の為に死んだりするな。むしろ俺の為に生きろ」
 武人はすぐ死ぬ死ぬ言いやがると睨みつけると。
 楸瑛は実に嬉しそうに笑って、もちろんだよと答えた。


 ―――築山からのせせらぎの音が、穏やかな春の夜に趣を添えている。
 

                                               【了】


<後書き>
琥珀が出る前に・・・と、07年の秋から必死で書いていたのに、ちっとも形になってくれない話の冒頭です。
もう原作で次でちゃったので、微妙なんだけども・・・ こんな路線で余裕があってカッコいい楸瑛を書きたいと、現在進行形であがき中です。
(続きはオフで本にしたいのですが・・・)