公然の秘密
(別名:新人のお仕事)

「おい、珀坊。これも届けといてくれ」
「はい!」
「こっちは明日までな。侍郎宛だから、気を入れて写せよ」
「はい!」
 吏部に配属されてから約二月。憧れの吏部に所属できたとはいうものの、新人にできることなど雑用ばかりだ。
 やれこの書類をどこに届けろの、書き損じた文書を清書しろの。
 そうこうしているうちに、どの仕事がどこに関連しているか、担当は誰か。必要な書式や書くべき内容その他諸々を見覚える。
 彩雲国の役所に研修などという気の効いたものはなく、全ては先輩が行っていることの意味を、どこまで感じ取れ、記憶できるか、それだけに尽きた。特に吏部や戸部では先輩官吏に余裕がないから、言葉で教えてもらえることはますます少ない。何事も、自分で掴めないものは潰れていく。
 珀明はその点、腰が軽く飲み込みが早いと評判がよかった。先輩に可愛がられることは吏部では仕事の量に直結する。誰も、使えぬ相手に仕事をふって、後始末に終われることなど避けたいからだ。体はきついが、習うより慣れろで、同期の誰よりも短時間で量をこなしたおかげで珀明には周りを見回す余裕が出来てきた。
 例えば、他の雑用はどんどん回してくるのに、書類配達は絶対言いつけてこない先輩が何人かいること。その先輩達が書類を持って出て行くときは、ほとんど同時であること。けして示し合わせているわけではないらしいこと。
 気づけば気になり、何度かまねをしてみて・・・・・・
 隠された意味に気づいた後は、珀明は書類配達を進んでかき集めるようになったのだった。


 今日も今日とて、午後に入って早々だというのに机の横には両手に抱えるほどの書類が山積みになっている。既に一度に運ぶのは厳しい、だがまだ立つべき時はいたっていない。今日こそは成功したいものだと思いながら、珀明は、その山を横目で眺めた。
 先輩から預かった書き損じだらけの書類を清書する手は休めない。仕事をしない人間など、吏部には要らないからだ。
 やがて、侍郎室の扉が開いて、李侍郎その人が部屋から出てきた。いつも通りすっきり伸びた背筋、気品のある後姿にちょっとうっとりする。と同時に推理を始める。
 手には何も持っていない、だから行き先は府庫ではない。府庫の場合はたいてい、何かを探すと同時に、返すものがある筈だ。
 他部署との打ち合わせでもないだろう。重要な会議の場合は、議題に関係のある書類一式を持って、誰かが供につくのが慣例だ。
 今日は午前を王の執務室で過ごされているから、そこでもない。
 では厠だろうか。
 同じ結論に達したらしい、密かなライバル達の間に緊張が走る。
 もちろん、まだ誰も書類から顔を上げない。吏部から最も近い厠までは、扉を出て左にまっすぐ百歩ほどの距離だ。普通なら、数分で戻ってくるはずである。
 耳をそばだてながら書類を数枚やっつける。李侍郎はまだ戻ってこない。ほぼ四分の一の確率で、絳攸は、出て右へ戻らず、また左へ進むのだ。今回も、そうしているに違いない。
 珀明がそう判断したと同時に、がたがたと、椅子を引く複数の音がした。珀明も今こそと、たまった書簡を手にして部屋を出る。
 まずは戸部。早足で渡す相手を入り口から呼び出し、届け先の相手からの確認に応える。気は焦るが仕方がない。問われてなにも答えられないなら、それこそ雑役夫にさせればいいことで、官吏が直接届けるからには、中身は承知しているのが当たり前だからだ。
 次は工部。またできる限りの早足で、しかし最短距離は歩かない。無理なく迂回路を回る。仕事はこなさねばならないが、目的の為には、用のないところほど目を配っていた方がよい。だから、現実的な折衷案としてはそれが最適なやりかただった。
 ちらりと視界の隅に、藍色の衣が映る。珀明の足がますます速くなる。なんといっても、彼が一番の強敵だ。自分達のように、李侍郎が部屋の外にいることなど知らないはずなのに、十に八までは、この宮中に入れないところはない武官に持っていかれてしまう。
 李侍郎が王の執務室を目指している時なら仕方がない、珀明にはそこに向かう理由は何一つない。けれど、目的地が吏部ならば、譲る気はなかった。
 右に、左に。制限時間は、普通に歩けば次の目的地、礼部までたどりつくだけの時間。・・・・・・繰り返すが、仕事をしない官吏は吏部には不要なのだ。趣味だの個人の幸せだのの追求は仕事に影響を及ぼさない範囲で、行うべきである。
 だから、本来必要と思われる時間の間だけ、超早足で可能な限りの寄り道をする。成功する可能性はもともと低いので、その範囲で駄目なら次の機会を待つ。それが珀明なりのけじめだった。
 けれどももう十日も運に見放されているので、今日こそはと気合が入る。走るのと変わりない速度で広い宮中を移動しまくって。
 今日も駄目かと思いかけた矢先に、銀の髪が見えた。
 珀明にもまだ用途の分からない建物の角を曲がって、いずこともしれず歩み去ろうとしている。
「絳攸さま!」
 声をかけると、あこがれの上司がさっと振り向いた。
「ああ、珀明か」
「はい!」
 息が上がりそうになるのを必死で押さえる。自分がこの人を探して駆け回っていたことを、彼にだけは悟られてはならない。
「配達の途中か。ご苦労だな」
 鉄壁の理性の異称にふさわしい、落ち着いた表情で軽くねぎらいの言葉をかけて。それから、ふと思いついたというように訊ねた。
「・・・・・・それはどこに届けるんだ?」
「いえ、これは吏部に持ち帰るものです」
 きっぱりと嘘の返答をした途端、絳攸の顔がぱっと輝く。そしてふわりと微笑を浮かべる。普段の厳しい面差しが優しく緩むと、彼は花のように美しい。
 珀明の胸がじんと温まる。報われたと思う。
「そうか。俺も戻るところだ」
「ではご一緒させてください」
 答えはもちろん、それ以外にない。珀明は、貴重な吏部侍郎の笑顔を見れた上に、並んで歩ける幸せを噛み締めた。


 偶然の出会いが、必然の捜索になってしまえば、笑顔の報酬がなくなることを。
 絳攸の笑みの理由を悟るほど目ざといものならば、皆知っており。
 かくして。
 吏部侍郎の秘密は、今日も無事に保たれている。
 

                                               【了】


<後書き>
漫画版彩雲国の、道に迷った時に悠舜が目的地に行くと知った時の絳攸が、あまりにも良い笑顔で。
こんな笑顔が見れるなら、理由に気づいても黙って案内しちゃうよなー、と思いました。
絳攸を迷子時限定で捜し歩くほどディープな絳攸ファンでなくても、出会えばそ知らぬ顔で彼が行きそうなところをあげてくれる知人は、実は沢山いそうです。

そして珀明をはじめとする絳攸信者達は、
絳攸が迷っている時間が長いほど、笑みは深く輝かしいが、時間をかけるほど誰かに先を越される可能性も高くなる というジレンマに悩むのでした。