吏部のお仕事

「黎深さま!」
 扉の前で深く息を吸い、気合を入れて呼びかける。
「なんだ」
 いつも通りそっけない応えが返った。今日は在室していたらしい。
「失礼します」
 抱えきれないほどの書簡を持って尚書室に入室する。床に積みあがっているものは大量だが広い机の上には何もなく、今日は切り出し方次第で仕事をしてくれる気があるようだ。絳攸はかすかに肩に力を入れた。
「春の除目の覆面官吏の移動の件で、草案をまとめました」
 絶対に黎深の裁断がいるものだということ、緊急性が高いこと。自分で出来る段階としては最終案までまとめてきたことを、端的に伝えるのがコツだ。一つでも外すと、手に取ってもらうことすら難しい。
 今回は合格だったらしく、持ち帰れとの言葉は出なかったので、ほっとしながら腕に抱えた山を机上に移す。
 気の無い風情で黎深は端から取り上げ、視線を流すように読んでいく。
 中身についてはそれなりに自信はあったが、表情を伺ってしまう己が嫌で、床を眺めた。
 床と言ってもいつものようにいつものごとく、積まれた紙で埋まり尽くして、その下の木目が見えている部分などほとんど無い。
 だが吏部侍朗に昇進してもう二年、磨かれた勘がかすかな違和感を訴えて、絳攸は上司に聞こえぬように溜息をついた。
 どうも、積み方というか崩し方というかが、目を通してあるように思えたからである。
 ―――目を通したのに、床。
 それはこれらが、論ずるまでも無く却下されたということを意味している。
 吏部の職務は人事であるから、昇進降格報奨処罰。基本的に登用や解雇は多くは無いが、親族に凶事があれば、親しさに応じ一定期間公務を退いて喪に服すのが慣例で、その間の代替、復帰の時の配属等が諸々積み重なってくる。
 それでも移動が部をまたがない限り、原則的に案を立てるのは現場の長で、各部から上がってくる申請書類をただ承認するだけでよいなら、吏部の仕事はどれだけ楽なことだろう。
 実際には、全ての事案に――例えば昇進推薦状の一枚ごとに、受け付けた官吏が添え状を付けると決まっている。申請者達には見せない部外秘のそれには、昇進対象者の表裏の人脈・事情、実力や職歴等が簡潔にまとめられ、昇進の妥当性についての意見まで付与されて初めて侍朗や尚書に提出されるのだ。
 そこまで念を入れるのは、現在の王宮が実力主義の建前とは裏腹、縁故採用ツテコネありの二重構造をしている為だった。
 地縁血縁入り乱れての勢力争いの行き着く果てが人事であれば、全ては慎重の上にも慎重であらねばならない。
 ことに尚書が黎深に変わってからは、覆面官吏などという非公式の存在も用いて、正確な情報の把握に努めているのだが。この裏人事を裏にしておく為の工作が、たださえ複雑な業務を更に複雑にする。
 ・・・・・・今黎深が眺めているのが三ヵ月後の除目の為に絳攸がまとめた第一案で、覆面官吏の異動先を記したものだ。さすがに裏の存在をそう多数は置けないから、査察先をどこにするか、誰を重点的に観察させるかが肝心なのだが、標的部署でもこの時期には人事異動があるから、ことは非常にややこしい。昇格・降格者を読み、それに応じて覆面官吏の配置を決め。更にそのめくらましの為に、一般官吏たちから誰をどこに動かすかを考える必要がある。
 こんな時期に、仕事を増やしたくないな、と、床に広がる書簡を眺めて絳攸は、それが未決の山ではないと気づいてしまった己に少し悲しくなった。
 『吏部の奇跡』の時でもない限り、黎深は却下する理由をけして説明しないから、各担当者達に引き取りに越させた後、吏部官の書いた添え書きが悪かったのか、申請内容自体が駄目なのか、はたまた目を通した時期には時間がたちすぎて、意味を成さなくなっただけなのか、判断して指導してやるのは絳攸の仕事になるのである。
「何を見ている」
 気を逸らしたのは長い時間ではなかったが、目ざとい上司に詰問されて、絳攸は我に返った。
「いえ」
 顔を上げた拍子に、窓際の小卓に数点の書簡が載っているのに気づく。
「黎深さま。ご認可くださったのはあれだけですか」
「うむ」
「……では、後ほど床を片付けさせます」
「うむ」
 絳攸の注意が黎深に戻れば、そっけなくなるのもいつものことで。それでも書類を放り出そうとはしない上司に、今日はよほど機嫌がよいのだなとほっとする。
 普段ならば仕事をしてくれるよう頼んで頼んで頼んで、やっと一時間ばかり机に座ってもらうのだ。もっともその一時間で、黎深は余人なら数日はかかりそうな数の裁断をこなすのだけれど。
 今も、ただ眺めているだけのような速さで書簡を繰って、それでこの複雑な玉突き人事の中身がきちんと把握できるらしい。一通り目を通すと朱筆を取って、数箇所に赤を入れた。
「礼部の鄭は動かすな。張はそのまま。ここしばらく寄越す文書が不自然だ。半年精査してどこぞに取り込まれたようなら切れ。だが本人には言うな。代わりに―――」
 覆面官吏などというものはあくまで裏の存在であり、そのあいまいな立場からも、忠誠のありどころを見極めることが難しい。絳攸の気づかなかった心変わりの兆候を指摘し、数項目の変更を指示すると、黎深は相変わらず気のない顔のまま、書簡をぽうんと机の上に放り投げた。
「まあ、昨年よりはましなできだな」
 厳しい上司にしては最上級の評価に、絳攸は安堵の溜息をつく。
「ありがとうございました」
「うむ。引き続き仕上げにかかれ」
「はい」
 礼を取って部屋を下がる。
 ・・・・・・今回は幸運だった。

 絳攸が何時間もかけて書類をひっくり返しながら確認するようなことを、一瞥で把握して即断できる黎深の有能さにはいつもながら舌を巻く。
 こういうことをもっと頻繁に、他のものにも見える形でやってくれればよいのに、と思う。理由はあるくせに説明せずに却下して、却下したことすら言わないことも多い吏部尚書の評判は、誰に聞いてもあまり芳しいものではない。絳攸はそれが悔しかった。きちんと説明するところまでやってくれれば、黎深の評判も上がるだろうし、吏部の官吏たちの苦労も、全く違ってくるだろう。少なくとも仕事時間は半分以下に減りそうだ。
 しかし黎深にとっては世間での評判など、雀の鳴き声ほども気に止まらないものに違いない。絳攸が嘆くのは、彼にとっては余計な世話なのだ。
 絳攸は深く溜息をついて、首を横に振った。
 どうにもならないことを考えるよりも、できることをした方が前向きである。
「おい」
 今度は吏部の大部屋に続いている扉を開けて、尚書の部屋の床にある書類を全部引き上げ、担当官に差し戻すように伝える。前回類似のことがあった際には、一度侍朗室の床に積み上げさせて、目を通してから担当官を呼び、改善点指導をしたのだが、今回はまだ春の除目の詰めが残っている。一度差し戻して、再申請する必要があるかどうかの判断を、各担当官に先にさせよう。うまくすれば数がかなり減るかもしれない。

 ・・・・・・そう考える絳攸は。
 尚書室の床になど積んである案件は、部下達も最初から通らなくてもいいと思っている案件ばかりだと、この時まだ気づいていなかった。
 本気で通すつもりのある書簡は侍朗室に出す。
 どうしてもどうしてもどうしても尚書の認可でなければならないものは、絳攸が交渉に行くだろうし。そうでないならば、侍朗の認可印で十分だ。提出書類への絳攸の裁可も非常に厳しいが、理由をきちんと述べてくれるので再作成ができる。絳攸が認可したものに対して紅尚書の駄目だしはまずされない。だから内容的には絳攸が認可したものであれば問題ない。
 それならば、尚書に印を押させるよりも、侍朗印で何が不服だと関係部署にごり押す方がよほど楽というものである。
 ・・・・・・かくして、かつては尚書印が必要だと思われていたものの多くが侍朗印で処理されることになり。悪鬼巣窟の二つ名は世に高くなるばかりなのであった。

【了】


<後書き>
新人採用も中途採用も研修も福利厚生も(多分)しないのに、年中忙しい人事部。上司が仕事をしないことで忙しい部下。
吏部の謎を、自分なりに考えてみました。
・・・・・・多分こういう日常を送っている絳攸は、主君に関しても懇切丁寧な指導を行っているつもりなのです。
習慣って、恐ろしいですね!